・古代
 南方に開けた平地と、利根川と渡良瀬川の水、金山の自然と、人が生活をするには恵まれた地域だった太田地区には、
古くから人が住むようになりました。最初に人が住んだのは、東長岡の『焼山遺跡』や『戸井口遺跡』などの旧石器時代の遺跡が
市内にあることから、紀元前1万数千年前頃であろうと思われます。その後も縄文時代の遺跡『下宿遺跡』や『間之原遺跡』や、
弥生時代の『磯之宮遺跡』や『石田川遺跡』などが残されているように、連綿と人が住み続けていたのです。

 関西に、大和朝廷が確立する頃になると、この太田地域にも、強大な力を持つ豪族により統治される『むら』が造られるように
なりました。権力の象徴として、巨大な古墳が作られたのもこの頃です。市内には、前方後円墳の形式により築造された『天神山古墳』の
他にも、大小さまざまな多くの古墳があり、豊かな地域であったことを想像させます。
 その頃、大和朝廷ともつながりを持ち、朝廷の記録に『上毛野国(かみつけぬのくに)』として残されている国は、この太田地域であると
思われます。

 この地域を『太田』と呼ばれるようになったのは、広大な田が広がっていたことから『大いなる耕田』の土地という意味から、『大田』と
呼ばれ、『大』が点のある『太』に変わったと思われます。

・中世
 平安時代の末期に、清和源氏のスーパーヒーローであり、関東征伐の征夷大将軍であったる『源義家』の孫である『源義重』が、
浅間山の噴火(1108)により荒廃したこの地域を開発しその領地としました。これが、新しく作った田の荘、『新田荘』であり、
領主とした住み着いたのです。
 太田市内には、新田家の菩提寺である『金龍寺』があります。

 新田家の8代当主である『新田義貞』は、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の命により、『生品神社』にて挙兵し、鎌倉に攻め入り、
鎌倉幕府を倒す中心的な武将として大活躍をしました。しかし、同じく、源義家の孫を祖とする、お隣の『足利荘』の領主である
足利尊氏』との確執により破れ、新田家は没落しました。

 新田家没落後のこの地域には、『金山城』を築いた『由良氏』によって統治され、現在の市役所周辺は市場や町場、武家たちの住む
地域として発展しました。市内に住む武士たちが、金山城へ通勤するために使った道が、『御城道』として、いまでも整備され保存され
市内から金山をめぐるハイキングコースになっています。

・近世
 
戦国時代が終わり、近世に入ると、関東を領有した徳川家康が江戸城に入りました(1590)。家康の家臣である『榊原康正』が
館林城主として入城し、この太田地域もその領地となりました。1680年に館林藩が解体され、この地域は、天領となり、
地域の大部分は旗本の知行地となりました。
 徳川家康は、祖先を新田家であると主張しました。新田家の祖、新田義重の子『新田義季』が徳川家の祖であり、徳川家の子孫が
『(上州)松平家』を起したことから、岡崎松平家の嫡男である家康は、岡崎松平家は上州松平家の子孫であり、その本家が徳川家で
あることから、衰退していた徳川家の家督を継いで『徳川』を名乗るようになったのです。
 これにより、もともとは岡崎の地侍であった松平家康は、清和源氏の嫡流であると強弁し、征夷大将軍の位を得ることができた
(征夷大将軍は、源氏の武将にしか与えられていなかった)のです。
 徳川家康は、新田義重の菩提を弔うためとして、1613年に、金山の山麓に『義重山新田寺大光院』を創建しました。『呑龍上人』という
優れた住職を得た『大光院』は、その業績から、『子育て呑龍』として信仰を集め、今でも、七五三の季節や、新年の初詣などでは、
参詣客で埋もれるほどの寺院となっています。
 徳川義季が支配した現在の太田市世良田は、徳川将軍家から特別な扱いを受け、租税を免除されていました。世良田には、義季の
娘である『浄院尼』の開基である尼寺『満徳寺』があります。
 このお寺は、江戸時代に幕府から正式に許されていた二つの縁切り寺の一つとして有名です。
 有名な縁切り寺である鎌倉の『東慶寺』の住職は、徳川家康のひ孫であり、豊臣秀吉の息子豊臣秀頼の娘『天秀院』ですが、この
満徳寺には、『天秀院』の母(徳川家康の孫、豊臣秀頼の妻)『千姫』が一時住職であったことからであると思われます。

 第三代将軍徳川家光は、日光に仮設されていた『東照宮』を、現在の大規模なものに改めると共に、朝廷に対して、毎年一度、
日光東照宮に使者を派遣するように依頼をしました。この使者を『日光例幣使』と呼びます。その日光例幣使が、京都から日光まで
道中する道の内、すでに街道として名称が付いている道以外を、『例幣使街道』と呼び、現在の太田市本町通りが、この街道です。
現在でも毎年、『太田祭り』の日、この行列を模した道中が行われています。
 日光の『東照宮』の完成と共に、それまでの建物を、徳川発祥の地である太田世良田に移築しました。それが、『世良田東照宮』として、
現在も保存されています。

地域の歴史は

@古代・中世・近世

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