呑龍上人


「呑龍上人実伝」より
呑龍上人

 太田市最大のお寺である大光院は、『呑龍さま』と呼ばれ親しまれています。

 その理由は、このお寺の初代住職が、呑龍上人だったからです。

 呑龍上人は、武蔵野国埼玉郡の生まれです。(弘治2年〜元和9年)

 芝増上寺で修行した後、八王子の大善寺の住職を務めました。

 その人となりが将軍徳川家康に好まれ、命により、上州太田に大光院を建立し初代の住職となりました。

 貧しい子供を手厚く保護したことから、「子育て呑龍」と呼ばれ民衆から尊敬されていました。

 また、呑龍上人が還暦の年、親の病気を治そうと、国禁を犯し鶴を殺した少年が大光院に逃げ込みました。 上人は、少年を伴い逃走したことから、罪人として追われる身となったのです。

 その後、恩師であり、日本国最高の僧侶であった観智国師の遺言によって赦免となり、66歳の春に大光院に帰山しました。

 元和9年、病床にあった上人は、『9日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生のしらせである』と弟子たちに言い残す。 9日の正午、雷鳴がとどろく中、息を引きとったと、言い伝えられています。