新田義貞

源氏の武将

 鎌倉幕末期の武将。清和源家の嫡流であり、征夷大将軍として関東から東北地方にまで遠征し平定した伝説的な名将、『八幡太郎 源義家』の孫である義重を祖とし、 上野(こうずけ)の国、新田荘を支配した武将。1301年の生まれ。

 時の天皇は後醍醐天皇でした。鎌倉幕府による武家政権から、天皇による政権を取り戻そうと、後醍醐天皇は各地の武将や豪族に綸旨を送り、 討幕の軍を挙げるよう促していたのです。

 天皇からの綸旨を受け、鎌倉幕府の守護北条氏から派遣された臨時徴税使を斬り捨て倒幕の旗揚げを決意した義貞は、元弘三年(1333)5月8日、 150騎の軍勢を持って、生品神社にて旗揚げの儀式を執り行い、挙兵を行った。

 鎌倉を目指し出立した150騎の軍勢には、越後新田一族など、次々と軍勢が集まり、数千騎となって鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府崩壊の中心的な 勢力となった。鎌倉幕府は、新田義貞挙兵後、たった十五日で崩壊した。

 足利尊氏らと共に鎌倉幕府を倒した義貞は、その後、各地の旧幕方の軍勢と転戦、その過程において足利尊氏とも不仲になり(一説には、武門の家柄としては 同格なのに、尊氏ばかりが重用されることに嫉妬した?)、分裂した天皇家の勢力争いにも巻き込まれ(後醍醐天皇と不仲になった足利尊氏は新たな天皇を強引に 擁立した。一方新田義貞は、あくまでも後醍醐天皇に付き従った)、尊氏とも戦うこととなっていった。

 後醍醐天皇軍の武将として戦った奥州北畠軍との戦さの最中、矢を受け1338年に戦死した。

 終生、世の中の主流に登ることができなかった、悲運な武将である。

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