地域の歴史は

A近代・現代・未来

・近代
 
明治時代に入り、廃藩置県が行われ、徳川領だったこの地域は、今は無い『岩鼻県』管轄となり、明治4年7月に『館林県』に、
同年11月には『栃木県』へ、明治9年になり、『群馬県』管轄となりました。そして、明治22年に、独立した『太田町』が誕生しました。
この頃の太田は、宿駅制度が廃止されたことから寂れ、大光院の縁日などの日に人が集まる程度、隣の桐生や足利には、鉄道の
駅もできたのですが、太田には鉄道も無く、さびれた田舎町でした。
 太田の町が一変したのは、大正6年です。『中島知久平』氏が、大光院の東隣に、『飛行機研究所(後の中島飛行機(株)』を設立、
飛行機の設計と生産を開始したのです。
 軍国主義の世相の中、飛行機産業は飛躍的に発展し、中島飛行機(株)が、太田と周辺地域に工場を建て、軍需工業都市となり
ました。

・現代
 戦後、中島飛行機(株)は消滅しましたが、軍需工業の周辺産業として地域の存在した各種の工場が、自動車工業や繊維工業、
ボタン工業などと形を変え、地方工業都市として発展を続けました。
 昭和23年5月3日には、市制を施行し、『太田市』となりました。
 その後、周辺地域との合併を進め、平成17年3月28日には、太田市、新田町、藪塚本町が合併し、人口21万人を超える市と
なり、現在、大泉町との合併に向け調整が進められています。

・未来
 太田の未来は、若い方たちが作り上げるものです。若い人達が、住みたいと思う街づくり、それが、太田に住む大人の責任です。
 どちらかというと、工業都市としてのみ発展してきた太田です。調べてみれば、古い歴史もある郷土なのですが、市立博物館も
民俗館も、本格的な図書館すらありません。残念ながら現在の太田は文化不毛の街なのです。これでは、子供たちは帰ってこない。
 子供達が誇りを持てるように、将来成長した暁には、太田に戻って暮らしたい、そう思わせる街にしなければなりません。これが、
私たち大人の、未来に向かっての責務であると思っています。
 太田を、歴史と文化の街にしたい。
 道州制が話題になっています。将来、北関東州(仮称)になったとしたら、かつて、両毛地区とも呼ばれたこの地です。太田と
桐生に、足利を加え、『新田義貞』『足利尊氏』『徳川義季末裔の徳川家康』、三人の源氏の武将を生み出した『源氏の里』として
合併し、『両毛市』となる、これは、私の『夢』ですけれど。