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中島飛行機(株)

歴史

 大正6年(1917)5月尾島町にて「飛行機研究所」として創業。
 創業時の社員は、代表者の中島知久平のほかに、奥井定次郎・栗原甚吉・佐久間一郎・石川輝次・中島門吉・佐々木源蔵の
7名でした。
 同年の12月に、大光院の東隣に本拠地を移し、本格的な事業を立ち上げました。この工場は、現在は富士重工業(株)群馬
製作所北工場になっています。
 大正8年(1918)に社名を「中島飛行機製作所」に改め、軍用機を中心に本格的な量産を開始しました。
 昭和9年(1934)には、太田駅の北東に「太田工場」を建設、旧工場を「呑竜工場」と呼ぶようになりました。その後、陸軍機と
海軍機を分離する必要から、現在の大泉町に「小泉工場」を建設したのです。この工場は現在、三洋電機(株)の東京製作所と
なっています。
 昭和6年(1935)に社名を中島飛行機(株)と改称。
 昭和20年(1949)に第二次世界大戦が、日本の敗戦として終わり、米軍は太田にも進駐し、同年の10月には、太田工場が
米軍により接収されています。
 中島飛行機(株)は、同年8月に解体され、その幕を下ろしたのですが、接収をまぬかれた呑竜工場には、富士産業(株)が
設立され、現在の富士重工業(株)へと続いています。
中島知久平 中島飛行機(株)の創立者。

 明治17年(1884)小島町に生まれる。太田中学校への進学を望むが、家庭の事情から進学できず、家出同然で上京、独学により
海軍機関学校に入学、卒業後は海軍機関兵として軍人となる。
 明治44年に海軍大学校専科生となり、飛行機を研究。明治45年に海軍航空術研究委員会委員となり、渡米しアメリカの飛行機
会社で研修を行うと共に操縦も学び、日本人で3人目の飛行士免許を受ける。
 大正6年に設立した飛行機会社のオーナー経営者であると共に、昭和5年(1930)には、総選挙に立候補し当選、国会議員となる。
昭和6年には、商工政務次官、昭和12年には鉄道大臣として入閣。昭和20年にも、軍需大臣として閣僚を務める。
 昭和20年、日本の敗戦と共に「A級戦犯容疑者」に指定され、自宅に軟禁となる。
 昭和24年に脳溢血で倒れ、享年66歳の人生を閉じた。