香港の遊び場:
香港のカラオケクラブ概論


香港のカラオケクラブ概論

 さて、香港での夜の遊びです。夕食を終え、単身赴任の孤独なマンションに帰るのもちょっと寂しい、誰からともなく、 「行こうか」となります(^ム^;)

 世界共通語の英語が堪能ならば、香港には英国人向のパブがいくらでもありますし、広東語(中国語ではダメです、馬鹿にされる だけですから)がしゃべれれば香港人向の安いショットバーも多い。しかし残念ながら日本語が中心の日本人は、日本人向の「カラオケクラブ」に 行くことになります。

 どんな歴史で香港に、今のような日本人向の香港スタイルカラオケが出来たのかはよくわかりませんが、 古くからいる人に聴くと、九龍サイドの 南端にある、新世界ホテルの地下、新世界ショッピングセンターの中に、 初めて日本人向のクラブが出来たのだそうです。20年近くも前のようです。日本人の初老女性が経営するその店が、 日本語で飲める最初の店だったらしいのです。ママはすでに亡くなり、娘さんが今は尖沙咀東で居酒屋をしています。

 この店が、どれくらい繁盛していたかは知りませんが、その後、次々と日本人向の店が出来たのですから、 きっと大繁盛していたのでしょうね。

 その繁盛振りを見て、真似して次々と開店した日本人向のクラブが、日本人経営の店だったら、今の香港は変わったと 思いますが、実は違った。日本人はとても進出ができなかったようです。そのあたりは、私が、年に数回行く大阪の スナックのママから聴いています。その大阪のママが、誘われ、香港まで下見に行ったのがおそらく、新世界地下が 大繁盛していた頃だからです。そして、進出を断念したそうです。香港には、香港のヤクザがしっかりと根付いており、 日本人の女性が簡単に進出できるような状況ではなかったようなのです。日本人は金持ちとの、誤ったイメージが香港人には ありますから、カモにされそうになり、大阪のママさんも、踏ん切りがつかなかったのでしょうね。

 香港で、日本人向のクラブの基礎を作ったのは、実は韓国人達でした。日本の海外進出は韓国から始まりましたね。そんな 進出企業に駐在した日本人向の店がソウルにはたくさん出来ていました。キーセンパーティなどという言葉が、日本にも聞こえていたのです。



 ところが、韓国も次第に採算が取れなくなり、中国に目をつけた日本の企業は、香港を足がかりに中国進出を始めました、 進出先が韓国から中国に移ったのです。それを、察知した韓国の夜の商売の人たちが、日本人の動きの合わせ、 香港に進出したのです。

 現在の香港日本人向のクラブの、おそらく、半数が韓国系の店です。残りの30%がフィリッピン系、20%が香港人系でしょう。 数百軒はあるという、日本人向のクラブですが、日本人経営の店は、私が知っている限り、大陸側尖沙咀のキンバリー通に、京都生まれの若いママが経営する「翡翠」と、 香港島の銅鐸灣に新潟生まれのベテランママが経営する店しかありません。ほとんど無いのと同じですね。


 韓国系と香港系、フィリッピン系とでは、遊び方、遊ばせ方が違います。そのあたりを理解して遊ばないと、香港の 夜の生活を危険無しには過ごせません。そのあたりは、いずれ詳しく(^ム^;)



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hpmanager2@albsasa.com Albert 佐々木