気ままにそぞろ歩き
縁切寺満徳寺(群馬県太田市)


掲載日:2007年9月17日

 縁切寺と言うと、鎌倉の東慶寺が有名ですが、もう一つ、源氏徳川家の発祥の地、上野の国世良田(現在の群馬県太田市)にも、縁切寺の満徳寺がありました。

 徳川幕府から公認された、ただ二つの縁切寺の一つです。 なぜ、こんな、辺鄙な田舎に縁切寺があったのか。実は、東慶寺よりも、この満徳寺の方が、公認されたのは古いのです。

 東慶寺が、縁切寺となったのは、家康のひ孫であり、豊臣秀吉の孫(家康の孫の千姫と、秀吉の息子秀頼の娘)である天秀尼が入山したことによりますが、 この満徳寺には、その母親である千姫が入山しているのです。

 そして、この寺の正式な名称は『徳川満徳寺』です。徳川家の開祖である『徳川義季』(源氏武将中の最大の英雄である『八幡太郎源義家』の孫であり新田家の祖新田義重の息子、新田義季が改姓して徳川家の祖となった)の 開基、初代の住職は、義季の娘である『浄院尼』なのです。

 源氏徳川家は、本家である新田家の没落(親戚である足利家との戦いに敗れ没落)と共に零落していたのですが、秀吉に代わって政権を取った松平家康は、不遜にも征夷大将軍になる野望をいだき、この徳川家に目と付けました。

 征夷大将軍は、源氏(天皇家から分かれた宮家と同格の家柄)の家系にしか与えられません(厳密な規定が有ったのではないようですが、これまでに将軍位に就いた人物はすべて源氏だった)。三河の地侍出身である松平家康は、本来ならば将軍にはなれません。 そこで、没落した源氏の家系を調べ、かつて、源氏徳川家から分家した家に、『松平』を名乗った家系があったことに注目。自分をその子孫であると強弁。潰れていた 徳川本家の養子なったということにして家系を略奪したのです。

 しかし、名家の家系を絶えさせないため、嫡子がいないような場合は、他家から養子を向かえ受け継ぐことは一般的に行われていたことですので、当時としては、普通のことと受け入れられたのでしょう。

 むしろ、天下を取った豊臣秀吉でさえ、不安定な太閤という地位(世襲ではない)に甘んじ、安定した幕府体制(基本的に世襲)を構築することができる征夷大将軍になることなど、 考えもしなかったと思われるのですから、松平という、自分の家系を子供に譲り、自分は他家である源氏に養子に入ることにより、征夷大将軍になることが可能であることに 気がつき実行したということは、やはり、家康の聡明さなのでしょう。

 ちょっと解りづらい場所なので、公式パンフレットから地図を転載しました。



 史跡満徳寺に併設されている資料館の中には、寺に伝わる歴代の徳川将軍の位牌、縁切状(去り状、三行半)など、貴重な資料が展示されていますが、撮影禁止なのでしかたなく、 公式パンフレットを掲載させていただきました。

 新田家の滅亡とともに、いったんは荒廃していた尼寺『満徳寺』ですが、徳川将軍家の成立と共に、徳川家発祥地として世良田が注目されました。家康はこの地を将軍家直轄地とし、450石の地を『御朱印地』として 農民からの年貢や加役(道の普請などの労働による使役)を免除して保護しました。この満徳寺は、その内の100石の地を与えられ、徳川家を念仏回向する専門の尼寺となりました。 つまり、一般の寺のように、檀家や墓を持たない寺です。しかも、宗派の本山からの支配を受けず、末寺も持たない独立した寺として保護されていたのです。

 そして、もう一つ与えられた役目が、寺法による『縁切』を取り仕切る役所としての役目でした。

 よって、徳川幕府の瓦解、明治政府の成立と共に、女性からの離婚も可能となりましたから、縁切寺としての機能をなくし、庇護する徳川家も力を失い廃寺となったのです。

 現在は、地域住民が中心となり、寺地こそ縮小しましたが、本堂をかつての姿に再建しつつ、本尊や位牌類を管理しています。



 利根川に沿い、南北に走る道の北側、伊勢崎から入った左側に駐車場があります。

 右側にあるのは、やはり徳川家ゆかりのお寺です。こちらは史跡ではなく、今でも運営されているお寺です。

 駐車場のほぼ中央に、史跡と資料館への入口の道があります。



 徳川ゆかりの村落、世良田(地図には、尾島町と書かれていますが、町村合併により、現在は太田市となっています)の観光案内図が掲示されています。

 史跡内部の案内図です。

 群馬県の上毛かるたの『ま』は、この満徳寺が採用されています。

 りっぱな資料館が建てられています。

 資料館前から史跡まで、整備された道が続きます。

 この門が、縁切を望む女性が駆け込みする正門です。この中は尼寺、男性は入れません。

 正門を、本堂から見た映像です。


 正門から見た本堂です。ここに駆け込んだ女性は、この本堂を見て、何を感じたのでしょうか。

 江戸末期の記録を元に、再建された本堂です。


 本堂の左側。

 同じく右側です。

 再建された本堂の外側には、かつての周辺建物の礎石が再現されています。

 幕府の定めた寺法による駆込離縁を受け付けた役所も併設されていました。

 施設の外部から見た本堂、背面側からの写真です。


 何時の日か、周辺の建物も再建され、往時の姿が復元されることに期待してます。


 『駆込』とは、何だったのでしょうか。

 江戸時代の日本は、『一夫多妻』でした。結婚とは、女性が男性の家に入ることです。そして、妻や妾は夫の所有物でした。

 結婚(妾として社会的に認知されている女性は、妻に準じます)している女性は、男性の持ち物ですから、それに他の男性が手を出すことは所有権の侵害になり罪でした。

 現代とは違い、『不倫』とは、妻である女性とその相手だけに存在します。夫である男性には、相手が他人の妻で無いかぎり『不倫』はありません。妻の側からのみ『一夫』制であり、 正式に離婚しない限り、女性の再婚はありえませんでした。

 夫が離婚を望んだ場合は簡単です。離縁状(去り状)を渡せばそれで終わり(実際には、持参金を返却するなど、それなりの責任はあったようです)ですが、女性が離婚を望んだ場合は、 夫から離縁状を書いてもらわなければなりません。それ無しに再婚した場合は、不義密通の罪に問われ、死刑すら科せられたのです。

 妻が離婚を申し立てた場合、素直に夫が応じれば良いのですが、夫がそれに応じなかった場合、妻は縁切寺に駆込むしか方法はありませんでした。

 ただ、その数は多くはありません。江戸に近い鎌倉の東慶寺の場合は、毎年数十件の駆込があったようですが、上州上野世良田のこの満徳寺には、江戸時代約250年の間に、駆込があったのは たったの107件だったとのことです。それも、今で言う示談で離縁になることがほとんど、寺法により、24ヶ月の入山(東慶寺は25ヶ月)の後に離縁しているのは、10件強です。つまり、 10年に一人くらいしかいなかったのです。

 入山も無料ではありません。入山中の生活費や経費を、女性側が寺に支払わなければなりませんでした。その額は、寺での扱い(納めた金額によりランクが付けられ、扱いが変わっていた)により異なりますが、現在のお金に換算すると その金額は数百万円にもなります。

 貧しい庶民では、安易に駆込すらできなかったのです。

 女性のための救済福利施設のように思われがちな駆込寺ですが、その実態は、けして、女性に優しい制度でも無かったようです。

 満徳寺公式ホームページ
写真撮影日:2007年9月16日


hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木