縁切寺と言うと、鎌倉の東慶寺が有名ですが、もう一つ、源氏徳川家の発祥の地、上野の国世良田(現在の群馬県太田市)にも、縁切寺の満徳寺がありました。
徳川幕府から公認された、ただ二つの縁切寺の一つです。 なぜ、こんな、辺鄙な田舎に縁切寺があったのか。実は、東慶寺よりも、この満徳寺の方が、公認されたのは古いのです。 東慶寺が、縁切寺となったのは、家康のひ孫であり、豊臣秀吉の孫(家康の孫の千姫と、秀吉の息子秀頼の娘)である天秀尼が入山したことによりますが、 この満徳寺には、その母親である千姫が入山しているのです。
『駆込』とは、何だったのでしょうか。 江戸時代の日本は、『一夫多妻』でした。結婚とは、女性が男性の家に入ることです。そして、妻や妾は夫の所有物でした。 結婚(妾として社会的に認知されている女性は、妻に準じます)している女性は、男性の持ち物ですから、それに他の男性が手を出すことは所有権の侵害になり罪でした。 現代とは違い、『不倫』とは、妻である女性とその相手だけに存在します。夫である男性には、相手が他人の妻で無いかぎり『不倫』はありません。妻の側からのみ『一夫』制であり、 正式に離婚しない限り、女性の再婚はありえませんでした。 夫が離婚を望んだ場合は簡単です。離縁状(去り状)を渡せばそれで終わり(実際には、持参金を返却するなど、それなりの責任はあったようです)ですが、女性が離婚を望んだ場合は、 夫から離縁状を書いてもらわなければなりません。それ無しに再婚した場合は、不義密通の罪に問われ、死刑すら科せられたのです。 妻が離婚を申し立てた場合、素直に夫が応じれば良いのですが、夫がそれに応じなかった場合、妻は縁切寺に駆込むしか方法はありませんでした。 ただ、その数は多くはありません。江戸に近い鎌倉の東慶寺の場合は、毎年数十件の駆込があったようですが、上州上野世良田のこの満徳寺には、江戸時代約250年の間に、駆込があったのは たったの107件だったとのことです。それも、今で言う示談で離縁になることがほとんど、寺法により、24ヶ月の入山(東慶寺は25ヶ月)の後に離縁しているのは、10件強です。つまり、 10年に一人くらいしかいなかったのです。 入山も無料ではありません。入山中の生活費や経費を、女性側が寺に支払わなければなりませんでした。その額は、寺での扱い(納めた金額によりランクが付けられ、扱いが変わっていた)により異なりますが、現在のお金に換算すると その金額は数百万円にもなります。 貧しい庶民では、安易に駆込すらできなかったのです。 女性のための救済福利施設のように思われがちな駆込寺ですが、その実態は、けして、女性に優しい制度でも無かったようです。 満徳寺公式ホームページ 写真撮影日:2007年9月16日
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