徳川家康は、征夷大将軍の任官を受け、幕府を開きましたが、制夷大将軍の任官を受けるには、天皇家から発した武家(源氏)の家柄が必要でした。 現在の群馬県太田市周辺は、源義国の息子二人(足利義康と新田義重)が住み着き、足利家・新田家を、新田義重の息子が徳川家をと、3家の源氏の家が起こった地です。 足利幕府が有名無実となり、実権を握った豊臣秀吉は源氏の流れではなかったことから征夷大将軍にはなれませんでした。後を襲った松平家康は、なんとしても 征夷大将軍になりたかったのでしょう。太田の地に、当時勢力を失った源家嫡流の名門徳川家があったことに目を付けたと思われます。 松平家の祖を松平親氏とし、かつて、徳川家の嫡流が松平に改姓したこととして自らを源氏の嫡流と称し、改めて徳川に改姓したのか、 たまたま、徳川家の嫡流の中に、自分と同じ松平姓を名乗った人(松平親氏か?)がいたことに着目し、その子孫であるとして、強引に源氏の 嫡流であると主張したのか、どちらかは解りませんが、いずれにしても系図を捏造し、朝廷から征夷大将軍の称号を出させた、それが徳川家康です。 源氏の嫡流の徳川家と、旧姓松平家康との間に血縁は無かったと思われます。本来ならば、家康には将軍になる資格は無かったのです。 しかし、朝廷とは別の政権を樹立するためには、どうしても征夷大将軍の称号が必要だった。そしてその考え方は間違ってはいなかった。300年にわたる平和国家日本は、家康の 卓越した能力によるところが大きかったと思われるからです。国民のためには、それで良かったのです。 徳川家康という人物は、天才的な武将であり、類まれなる政治家であり、詐欺師だった(^ム^;) 写真撮影日:2005年12月24日
|