市街地から、金山を抜け、桐生市に向かう道の左側、子育て呑龍で有名な大光院の北側に金龍寺はあります。
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道端に立っている標識です。
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山門のすぐ左側に神社があります。本来は神道と仏教は別の宗教なはずですが、江戸時代は神仏が一体となっていました。その名残ですね。
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良く手入れされた庭を持つ本堂は、まだ新しい建物でした。
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太田市の史跡に指定されているこのお寺です。教育委員会が立てた解説のプレートが建てられています。
このお寺には、毘沙門天が祭られていることから、太田七福神の一つとして観光コースになっています。
スタンプラリーもしていますよ。
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本堂の手前に、七福神の小さな像が並んでいました。
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金龍寺に安置されている毘沙門天の像です。 写真を撮られてもらうわけにはゆかなかったので、東武鉄道のホームページから借用しました。
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鎌倉幕府を倒す大きな流れの中に、新田一族がかかわりました。後醍醐天皇の命により、親族である足利尊氏と共に挙兵した義貞でしたが、鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇と足利尊氏の間に確執が生じました。
あくまでも、後醍醐天皇に忠誠を誓う新田義貞は、足利尊氏と戦う羽目になってしまったのです。
各地を転戦した後、武運つたなく38歳の若さで富山の地に戦死した義貞ですが、同じく新田家の一門である由良家がこの地を継ぎました。由良家の墓所がこの寺の裏手、山の中腹にひっそりと残っています。
特別な手入れや人の手は入っていません。各代の当主の墓が、信じられないほど小な墓標で並んでいます。古いものは一部朽ちて落ちています。
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墓所の中央部には、寛永14年(1637)新田義貞300回忌法要を行った時に建立された新田義貞供養塔(石英班岩の台に、安山岩の五重塔。高さ246cm)があります。
小さな塔です。とても、日本の歴史に輝いた新田義貞を記念した碑とは思えないほどの碑です。細部を見ると、良く吟味した素材を使っていてすばらしいですけどね。
こんなところにも、源氏武家の質素を暮らしを垣間見ることができるようです。
武士が、その身分の上に庶民を苦しめていた、そんなイメージが明治以降に捏造されたのではないかと思えることがあります。違います、
武家とは、庶民の安全のための守りに、自らの身を律し、質実剛健に生きていたのです。その生活実態は、豪農や裕福な商人とは比べ物にならないほど質素
だったのです。
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久しぶりに金龍寺に入ってみました(2005/11/05)。このそぞろ歩き記を掲載した時には無かった歴代住職の立派な墓地ができていました。
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開山から第十二世の住職の名前と没年が記載されています。(クリックすると4倍に表示されます。以下同様)
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第十三世から、牛久に移住する第二十二世までの名前が記載されています。
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再興した住職を第二十三世とし、先代(第三十三世)までの名前(一部欠落があります)が記載されています。
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