気ままにそぞろ歩き
新田義貞ゆかりの「金龍寺」(群馬県太田市)
太田七福神:毘沙門天


掲載日:2004年2月15日
最終更新日:2008年5月2日

 群馬県の太田市は、鎌倉幕府を倒す戦いに参加した武将、新田義貞の新田家が支配する地でした。

 東武鉄道太田駅前には、新田義貞公の銅像が建てられています。

 晴天でしたが、風の強い日曜日の午後、自宅からはすぐ近く、数分のところにある古いお寺に行ってきました。

 群馬県太田市にある新田義貞ゆかり、金山城主横瀬氏(後の由良氏)の菩提寺である「金龍寺」です。
 関東平野の最北部に、小さな山があります。そこが、関東の北の守りを固めるための山城「金山城」があったところです。 そのふもとに「金龍寺」が建っています。

 このお寺は、曹洞宗の寺であり、新田義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」にちなんで命名されたそうです。

 応永24年(1417)に横瀬貞氏が、祖先の新田義貞を追善供養するために開基したと伝えられています。

 天正18年(1590)由良氏が、常陸(茨城県)牛久に転封されたことにより、寺僧が牛久に移り、一時期は無住でしたが、 慶長年間(1596〜1615)に、館林城主榊原氏によって、同名の金龍寺として再興されています。
 金龍寺 太田市金山町40−1 0276-22-4920


 市街地から、金山を抜け、桐生市に向かう道の左側、子育て呑龍で有名な大光院の北側に金龍寺はあります。


 道端に立っている標識です。


 山門のすぐ左側に神社があります。本来は神道と仏教は別の宗教なはずですが、江戸時代は神仏が一体となっていました。その名残ですね。


 良く手入れされた庭を持つ本堂は、まだ新しい建物でした。


 太田市の史跡に指定されているこのお寺です。教育委員会が立てた解説のプレートが建てられています。

 このお寺には、毘沙門天が祭られていることから、太田七福神の一つとして観光コースになっています。

 スタンプラリーもしていますよ。
 本堂の手前に、七福神の小さな像が並んでいました。

毘沙門天 金龍寺に安置されている毘沙門天の像です。
写真を撮られてもらうわけにはゆかなかったので、東武鉄道のホームページから借用しました。
 鎌倉幕府を倒す大きな流れの中に、新田一族がかかわりました。後醍醐天皇の命により、親族である足利尊氏と共に挙兵した義貞でしたが、鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇と足利尊氏の間に確執が生じました。 あくまでも、後醍醐天皇に忠誠を誓う新田義貞は、足利尊氏と戦う羽目になってしまったのです。

 各地を転戦した後、武運つたなく38歳の若さで富山の地に戦死した義貞ですが、同じく新田家の一門である由良家がこの地を継ぎました。由良家の墓所がこの寺の裏手、山の中腹にひっそりと残っています。

 特別な手入れや人の手は入っていません。各代の当主の墓が、信じられないほど小な墓標で並んでいます。古いものは一部朽ちて落ちています。

 墓所の中央部には、寛永14年(1637)新田義貞300回忌法要を行った時に建立された新田義貞供養塔(石英班岩の台に、安山岩の五重塔。高さ246cm)があります。

 小さな塔です。とても、日本の歴史に輝いた新田義貞を記念した碑とは思えないほどの碑です。細部を見ると、良く吟味した素材を使っていてすばらしいですけどね。

 こんなところにも、源氏武家の質素を暮らしを垣間見ることができるようです。

 武士が、その身分の上に庶民を苦しめていた、そんなイメージが明治以降に捏造されたのではないかと思えることがあります。違います、 武家とは、庶民の安全のための守りに、自らの身を律し、質実剛健に生きていたのです。その生活実態は、豪農や裕福な商人とは比べ物にならないほど質素 だったのです。


 久しぶりに金龍寺に入ってみました(2005/11/05)。このそぞろ歩き記を掲載した時には無かった歴代住職の立派な墓地ができていました。


 開山から第十二世の住職の名前と没年が記載されています。(クリックすると4倍に表示されます。以下同様)



 第十三世から、牛久に移住する第二十二世までの名前が記載されています。


 再興した住職を第二十三世とし、先代(第三十三世)までの名前(一部欠落があります)が記載されています。

 新田義貞の子孫由良氏は、茨城県の牛久に移り、牛久に菩提寺である「金龍寺」を建立しました。牛久での由良家については、下記のホームページに詳しい説明があります。

        新田義貞の墓(牛久ドットコムより)
写真撮影日:2004年2月15日
追加撮影日:2005年11月5日


hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木