
| 第六話 戒め 発表日 2008/08/17 |
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30度を超える真夏日が、観測史上最長を記録したほど暑かった夏が、立て続けに発生した台風によって吹き飛ばされたかのように、一転、雨の多い肌寒い日が続いている。今日も4日続く雨だった。
エアコンが効き、店内は乾燥しているはずなのだが、ガラスドアを通して見える外の湿気が、雰囲気として伝わってくるらしく、どうにも湿っぽい雰囲気が店にも漂っていた。 そんな店内の雰囲気を明るくしようと、軽快なバイブラホンのソロを中心とした軽快な曲が続くMJQのアルバム「THE SHERIFF」をかけたとき、彼が入ってきた。 彼は、最近になって時々来るようになった若いサラリーマン風の客だった。 入ってくると、いつも、入り口に近いカウンターの隅に座った。 一人客には、面白いことにパターンがある。いつも、奥の隅に座る客、中央にどっかりと座るのが好きな客と、入り口に近い席を選ぶ客だ。入り口に近い席に座るのは、通勤途中の、電車の時間待ちで、 ちょっと飲みたい、そんな客が多いのだ。駅に近いこの店なのだから。彼もまた、そんな、電車での通勤者なのだろう。 いつもの彼は、カウンターの後ろに並べられたウイスキーやらバーボンのボトルを眺めて、あれこれと銘柄を替えてオーダーするのを常としていた。 まだ、自分の好みの酒が決まっていないのだ。 まだ若い彼だから、私には、それはむしろ当たり前のことだと、好感を持って迎えている。まだ若く、充分な経験もないのに、 したり顔で、特定の銘柄を指定するような若者は好きにはなれない。私にあれこれ質問しながら、銘柄を替え、味わっている姿は、彼の素直な性格を現している。 今日の彼はちょっと様子がおかしかった。いつもの陽気なハキハキとした雰囲気が感じられなかったからだ。どちらかというと、オドオドと落ち着かない。 いつもの彼の席にすわり、一言も声を出さず。ポケットからなにやら小さな箱を出してカウンターに置き、それを見ながらなにか考え込んでいる。 「どうしました。ちょっと変わった銘柄が入りましたよ」 私の方から声をかけた。 「え、はっ、はい。どんなお酒ですか」 最初はちょっと驚いたような顔つきだったが、すぐにいつもの若々しい顔に戻ってしまった。 「バーボンなんですけどね。15年ものの割には値段も手ごろでしてね、味はしっかりとして特有の甘みがちょっとクセになりそうな逸品ですよ」 「バーボンですか、いいですね、ではそれをオンザロックでください」 それからの彼は、いつもの彼の雰囲気に戻り、軽い会話をかわし、小一時間を過ごし帰っていった。 長距離通勤の彼は、途中で乗り換えの必要の無い、直通の快速電車を使って通勤していた。幸い、始発駅から終着駅での通勤だったので、本数が少ないことが難点だが、 立ち通しの通勤にはならない、往復ともなんとか座席を確保しての通勤だった。 今夜も、快速電車の時間待ちなのだろう。 彼は、いったんはポケットにしまった箱を、ふたたびポケットから取り出し、見つめている。その内、ゆっくりと蓋を開けた。 カウンター越しに見えた、その箱の中に入っていたのは、見るからに高価そうな、純銀製の古風にデザインされたオイルライターだった。 (誰かにプレゼントでもしようかと迷っているのかな) 私は思った。 片道の通勤時間が2時間を越える彼は、仕事が遅くなった日は、会社の近くのレストランを使い、ビールとともに夕食を済ませる。電車の時間待ちや、 気分の良い時には、ロアで軽く飲んでから帰宅の電車に乗ることにしていた。 家に帰り着くのは12時近く。そんな日には、妻には先に寝るように電話をすることが習慣になっていたし、妻は心得ているので、 夕食は作らず、消化の良い軽い夜食を用意して先に寝てしまうのだった。 今日は、残業にもならず、そのまま帰宅しても良かったのだが、仕事にからんだ職場の人間関係のトラブルがあり、精神的に疲れていた。そのまましらふで帰宅する気持ちにはとてもなれなかったのだ。 いつも立ち寄る居酒屋で食事をし、最近、偶然見つけ、気に入ったバー『ロア』に寄り、マスターと四方山話などして、気晴らしをして帰ろうと思ったのだった。 いつもならば中瓶1本だけにしていた食事中のビールを、生ビールの大ジョッキにしたのが良くなかったのだろう。レストランをでる時にはほろ酔いになっていた。 酔った状態でロアには入りたくなかった。酒を飲み、酔うための店に酔って入るには気が引けることと、なによりそれではせっかくの酒の味がわからなくなると思ったのだ。 特別厳格というほどではないにしても、真面目一方の両親に育てられた彼は、理科系の学部を選びサークル活動などに参加することもなく、学業一本の真面目な生活を送ったことから、 友人と飲み歩くこともほとんど無かった。酒には強くは無いと自分では思っていた。 卒業後に入社した会社は、技術系の職場だったことから、研究に追いまくられ自宅で飲むくらいしか酒との付き合いはなかった。それが、都内に設置された情報収集のための分室に転勤となり、 業界の会合に出席する機会が増え、自分でも意外だったほど、酒が好きなことに気が付いたのだった。しかし、酒は好きでも、飲む酒はビールくらい。ウイスキーは水割りで飲むものと思っていた彼が、 ロアというバーと出会ったのだ。 ロアでは、水割りを飲む客は少なかった。ほとんどの客が、オンザロックか、氷の入った水のグラスを脇に置き、ボトルから注いだまま、生の酒飲んでいるのだ。 初めてオンザロックでスコッチを飲み、その味わいに驚かされた。水割りでは感じられなかった酒本来の味がそこにはあった。 彼は、店に並べてあるウイスキーやバーボンを片端から試してみることにした。置いたある酒は、どれもがマスターが厳選した最上級の酒である。 高い酒という意味ではない。安い酒でも、それなりの主張のある酒をマスターは置いているのだ。 そして、マスターとの軽い会話。「至福の時」そんな言葉は、ロアで過ごす時間なのではないか、そんな風にまで感じている彼だったのだ。 (ちょっと酔いを醒ましてから行こう) 思った彼は、レストランの近くの商店街を散歩することにした。そして、雑貨を扱う小さな店が多数店を並べるビルに入った。 特に買い物をするつもりもなかったので、いくつかの店に入り商品を眺めていただけだったのだが、入った喫煙具を売る店には、客も店員の姿も見えなかった。 ふっと手にしたそのライターを背広のポケットに入れたのだった。 (なんでこんなことを……) その夜はなかなか寝付かれなかった。 このところ、台風が続き、雨の日が多かった。しかも、その後の調査では震度7だったと報道された新潟の地震による、 被災者の悲惨の様子が毎日のように報道され、社会全体が重い空気に飲み込まれていたこともあったのだろう、客が少なく、 ひまな日が続いていた。 気分を変えようと、「THE SHERIFF」をプレーヤーにセットしたちょうどその時、彼が入ってきた。 (そういえば、前回もこのアルバムをかけた時にきたようだ) 思いながら声を掛けた。 「いらっしゃい。今日は早いですね」 「ええ、ようやく仕事の方も落ち着いてきましたから」 言葉とは裏腹に、あまり元気が無いのが気になった。 いつものように、そして私の勧めるウイスキーを飲み、酒談義をしばらくした後で、彼が問いかけてきた。 「マスター、万引きしたことあります」 その一言で、このあいだからの彼の不可解な様子の理由が納得できた。 一口に万引きといっても二種類ある。金がないから盗む。もう一つは、心にあるもやもやが自虐的な行為としてそれを行わせる。私にも経験がある。 「ええ、ありますよ」 ちょっと驚いたような顔になって彼は私を見つめた。 「お金に困っていたからですか」 「お金は、むしろ今よりもずっと持っていた頃ですね。ずいぶんと昔ですけどね」 「そうですか」 なにか考えているらしく、じっと黙ってしまった彼をしばらく見守ってから、私は静かに語りかけた。 「そうです。まだ私も若かった頃です。仕事は順調だった。でも周りから賞賛されるような実績をあげればあげるほど、やっかみも受ける。自然、 憂さ晴らしにと、一人で飲むことも増えましてね。お酒には強い方だと思っていましたが、その日は妙に酔ってしまって」 「それで万引きですか} 「いやそれが、覚えていないんですよ」 「覚えていない…」 「ええ。お恥ずかしいことなんですが、酔いつぶれて公園のベンチで目が覚めたんですが、手に、皮製の袋を持っていたんです。 値札が付いていましたからね、どこかのお店の商品だとは思うんですが。どこの店かも覚えが無くって」 「その袋はどうしたんですか」 「いやな気分の時には酒は飲まない。戒めとして、いまでも持ってますよ。もっとも、持ってきてしまったお店が判っていれば、 返したとおもいますけどね」 「返した…」 事情はほぼ、私が推測している通りなのだろう。 店も判っているのではと思う。 事情を話し、お店に商品を返すのが正しい処置であると、私も思う。しかし、相手がどんな態度に出るかは解らない。 謝っても許してはくれず、警察にでも話を持ち込まれたら大きな問題になってしまう。彼も、それを心配しているのだろう。 「どうすれば正しいのか、それは解ってるんですけどね…」 ポケットから小箱を取り出し、見つめながら彼は呟いた。 「まあ、正義が必ずしも正しく実行されるとは限りませんからね。表ざたにはしない方が良いと私は思いますよ」 「表ざたにはしない…」 「そう。黙って持ってきてしまったのだったら、黙って置いてくればいいじゃないですか」 「黙っておいてくるですか」 「もし、お店の人に見咎められたらですね。私なら、『この前、買い物に来たとき、酔っていてお金を払うのを忘れてました。 代金をお支払いしたいのですが、いくらですか』ってね。とぼければいいんですよ」 「とぼけるんですか」 「とぼけるのは、見咎められた場合ですよ。お金を払うと言っているのに、盗まれたとは言えないですからね」 彼の顔色が明るくなった。 「マスターありがとう。やってみます」 この日は、すでに深夜に近かったので、翌日実行すると彼は言い置いて店をでた。 (うまく行けばよいのだが) 彼の将来のこともあり、心からそう思った。 翌日、元気に扉を開け、彼が店にやってきた。 「マスター。うまく行きましたよ。店の誰にも気づかれませんでした」 「それは良かったですね」 「ええ。売り場にこっそりと置いて。それからいったん店を出たんです。そこで、マスターに言われたことを思い出したんです」 「私が言ったことですか…」 (なんだったんだろう) 「ええ、戒めですよ、戒め」 「ああ、そのことですか」 「店に戻り、戒めとして、そのライターを買おうと思ったんです。でも、値段を見てびっくりしちゃって。お恥ずかしい話ですよね」 「そんなに高かったんですか」 「ええ。すっかりあきらめちゃいましたよ。それでね。戒めの替わりとして、これを2個買いました。1個は私の『戒め』。もウ1個は、マスターにお礼です」 かれが差し出したライターは、ジッポーのニューヨークデザインのモデル。銀メッキのなかなか上品な製品だった。 「これも、安くは無かったでしょう」 「でも、『例の物』に比べたら、月とスッポンですよ。まあ、昨今は、スッポンも高いようですけどね」 快活に笑う彼を見て、心から、 (よかった) と、思った私だった。 完 |