創作民話 小僧タヌキ


掲載日:2003年9月30日
最終更新日:2004年7月21日
埼玉県川越喜多院の伝承より

 武州川越のお城の北東に、古くから続くりっぱなお寺がありました。

 お寺の和尚さまは、遠く京都の大きなお寺で、長い修行をされたりっぱな方でしたたから、その人柄を慕い、たくさんのお弟子さんが集まり、和尚さまのもとで修行をしていました。

 ある日、子供が一人、お寺にやってきて、

「和尚さま、私をお弟子にしてください。一生懸命修行をします」

 と言ったそうです。

 真剣に頼むその態度は、とても思いつきで言っているのではないと、和尚さまは解りましたが、子供が、たった一人で頼みにきたことを、不思議に感じたので、

「お前は、どこから来たんじゃ。親ごは一緒ではないのかい」

 とたずねました。

「はい。私は、ず〜っと西の、山の中にある村から出てきました。和尚さまのことは、村のお寺のお坊さまが、とても偉い和尚さまだと話していたのを聞いて知りました。それで、どうしても、和尚さまのところで修行がしたいと、両親にも話し、許してもらい、出てきたのです」

 その言い方は、とても、幼い子供とも思えないほどしっかりしていたので、和尚さまはそれ以上たずねることをしないで、お弟子に加えることにしました。

 和尚さまは、この子供に「信念」と僧侶の名前を与えました。

 信念は、この日から、厳しい修行をする小僧さんになったのです。

 朝はまだ暗いうちから起きて、お寺の廊下の拭き掃除はもちろんのこと、広い境内の掃除も信念の仕事でした。寺には、信念と同じくらいの年齢の小僧もいましたが、そのだれよりも熱心にお寺の仕事を進んでしました。

 和尚さまが、お寺の本堂でお経を読むときには、後ろに並んだ大勢のお弟子さんの一番後ろに座り、手を合わせ、和尚さんの読むお経を一生懸命に覚えました。

 夕方になり、修行やお寺の仕事が終わり、自分の時間になっても、他のお弟子さんのように、仲間と雑談をしたり、街に買い物に行ったりはせず、和尚さんから借りたありがたいお経を、紙に書き写すのが、信念の毎日の日課になっていました。

 そんな、信念の修行ぶりが、あまりにも熱心すぎるので、たまには、気晴らしに街を散歩でもさせないと、病気になってしまうと心配した和尚さまは、寺男を呼び、こう言いました。

「私はこれから散歩にでます。信念を連れてゆきたいので、呼んできなさい」

 命令された寺男は、信念が写経をしている部屋まで、信念を呼びに行きました。

「信念さん。信念さん。和尚さまがお呼びですよ」

 部屋の外から声をかけたのですが、返事がありません。

「おかしいなぁ。部屋の中にいるはずなんだがなあ」

 部屋の障子を開けた寺男は、ビックリして腰がぬけるほどでした。

 部屋の中には、小僧の着る黒い衣を着た小さなタヌキが寝ていたのです。

「和尚さま。たいへんです。信念は、タヌキだったようです」

 あわてて報告に戻ってきた寺男と、和尚さまが、信念の部屋に行ってみると、確かにそこには、小さな僧衣を着た小僧さんが寝ていましたが、そのお尻のところからは、茶色い小さな尻ぽがでていたのです。

「やっぱり信念はタヌキだったんじゃな。まあ、良い良い。タヌキじゃとて、仏の道を修行したいと考えるとは、感心なことじゃわい。そっとしておけ、起こすではないぞ」

 寺男に、信念が実はタヌキであることを、誰にも話してはいけないと、きつく口止めした和尚さまでした。

 それから20年が経ちました。厳しい修行に耐え、今では青年となった信念は、りっぱなお坊さまになっていました。

「信念。20年間、辛い修行に良く耐えたのう。お前はもう、立派な僧だ。これからは生まれ故郷に帰り、仏の教えを広めるのじゃ」

「ありがとうございます。和尚さまのご指導のおかげで、たくさんのことを学ばせていただきました。これから生家に帰り、仏の教えを広めてゆきます」

 和尚さまからはなむけにともらった、真新しい僧衣を着た信念は、深ぶかとお辞儀をしてから、故郷に向けて歩きだしました。その後姿に向かって和尚さまが言いました。

「信念よ。尻ぽがでてるぞ」

                            完


 オリジナルの伝承は、寝ているタヌキを発見した寺男が騒ぎ、タヌキは山に逃げ帰ってしまったとなっています。

 私はこの話に納得がゆきませんでした。川越の伝承だけではなく、人に化けた動物が、実はタヌキであったり鶴であったり、蛇であったりします。その実態が 人に知られたとたん、人間界には住めなくなり、山に戻って行く。そんな話が多いのです。おそらく、喜多院には偉い僧侶がいた。タヌキまでが、その徳を慕って修行にきていた。そんな、 地元のお寺を持ち上げるための伝承民話だったのでしょう。子供達への教育的な配慮が足りない。

 周りから嫌われていた存在のならばまだ別ですが、好かれ、愛されていたのならば、それが人間ではなかったとしても、そのことがどうして問題になるのだろう。それらの 伝承は、よそ者や異質の者を差別し嫌う、悪しき物の考え方でしかないと思うのです。

 特に現代は、外国人も多く日本に住んでいます。日本人も外国に住む人が増えている。よそ者や異質の者であったとしても、受け入れることが 必要なのではないかと思うのです。

 このような民話は、子供に対する教育的な効果を考えて作られるべきです。そうだとしたら、熱心に修行する小僧が、タヌキであってなんで悪いのか。 タヌキであっても、厳しい修行に耐える姿を、むしろえらいこと、とするべきではないか。異質な者をも受け入れることを教える話にするべきではないかと思い、この民話を創りました。



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hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木