群馬県黒保根村水沼の伝承より
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自作農ではあるといっても、所有する土地は猫の額のように狭い。とても嫁の来てなどないと、半ばあきらめていた太市だったのですが、庄屋屋敷に、隣の村から働きにきた「きく」を始めて見た時には、心臓が止まるかと思った。それほど、きくは可憐で美しかったのです。 「ほんとうに、菊の花のような娘だ」 そんなきくが、まさか、自分を好いているだなんて、夢にも思っていなかった太市でした。 村祭りの夜、 「私、太市さんのことが好き」 告白されたときの驚きは、言葉では言い表せないほどのことでした。 太市は、長身でたくましく、美男でもありました。性格は実直でまじめ、貧しさ以外には欠点のない青年だったのです。 きくは、かなり裕福な自作農の次女でした。行儀見習を兼ねての庄屋屋敷への奉公だったのです。親にして見れば、庄屋屋敷に奉公をさせ、はくをつけて、そこそこの農家に嫁がせるつもりだったのでしょう。しかし、きくも太市に一目ぼれしてしまったのだのです。 小作農ではないにしても、貧農といっても良いくらいに貧しい太市でしたから、始めは反対したきくの親達も、太市に会い、その性格を知るようになると、むしろ、きくの男を見る目を誉めるほど、太市にほれ込んでしまったのです。 縁談は、太市が目を回すほど順調に進み、いよいよ、婚礼まであと十日を切る頃になって難問が持ち上がりました。いえ、難問を思い出したといったほうが正確です。 この地では、祝い事があると、「振る舞い」といって、土地の世話役や親戚、親しい友人などを呼び、もてなすことが習慣になっていました。しかも、その振る舞いには、貧しい小作農などは別としても、会席膳を用いると決まっていたのです。そのため、高価な漆塗りの箱膳を、毎年少しづつ買い貯め用意をするのが風習でした。しかし太市は、どうせ嫁のきてなどないと思っていましたし、仮に嫁取りをするにしても、相手は貧農の娘、格式ばった会席膳など縁がないと、用意がまったくしていなかったのです。 「おきくにとっては一世一代の婚礼だものなぁ。膳もない振る舞いなんて、とてもできない」 会席膳には家紋を入れる必要がありました。近くに同じ家紋を使っている親戚でもあれば、借りることもできるのですが、今は亡き太市の父親は、他国から流れてきたよそ者だったのです。苦労に苦労を重ね、ようやく、小さな土地を一人息子の太市に残してくれたのです。親戚に借りることもできません。 今日も、昼過ぎに仲人を買って出た庄屋に呼ばれ、婚礼の打合をした太市でしたが、膳が無いとは言い出せませんでした。 「困ったなぁ」 庄屋屋敷から帰る途中、渡良瀬川のほとりにあった石に腰を掛け、考え込んでいた太市でした。 「よぉ、太市どん。なにを悩んでるんだい」 川の中から突然声が掛けられました。 一瞬、ビクッとした太市でしたが、これまで見たことは無かったとはいえ、この川に住む河童の噂は聴いていました。川でおぼれそうになった子供を助けたり、思い荷物を荷車に載せ、坂を登っていたりすると、いつのまにか出てきて押してくれる、そんな心やさしい河童との噂です。恐いとは思いませんでした。 「こんにちは、河童さま。初めてお会いしましたね。私が悩んでいるのを判ってしまったんですか」 「初めてじゃあないよ。おまえが十四の時、おぼれかかったのを下からささえて岸まで連れて行ったことがあったじゃないか」 「え、あれは、河童さまが助けてくれたんでしたか。えぇ、覚えています。おぼれそうになったのに、なぜか突然体が軽くなって、スッーと岸まで行けたんでした」 「おうおう、覚えていてくれたんかい」 「知らないこととはいえ、ありがとうございました」 深々と頭を下げる太市を、河童はほほえんで見ています。 「それでどうしたい、なにを困ってるんだい」 「はい、もうすぐ嫁を迎えることになりました」 「ほう、それはおめでたいじゃないか」 「おめでたいことはおめでたいのですが……」 「ああ、わかった、会席膳がないんだろう」 「え、どうしてそれが判るんです」 「そうさなぁ。もう、100年以上も前のことかな、やはり、おまえのような良い若者がなぁ、膳が整えられず、婚礼ができないと悲観して、この淵に身を投げたことがあったんじゃ。それがなぁ、たまたま、俺が留守で、助けてやれなかった。思い出すと今でも悔しくてなぁ。次は助けてやろうと、膳を用意してあるんじゃよ」 「膳の用意がある……」 「そうじゃよ、遠慮はいらない。いくつでもあるから、使いなさい。確か、おまえのところの家紋は四ツ目じゃったな」 「四ツ目紋の膳があるんですか」 「河童の膳はなぁ、使うときには、どんな紋でも、そこに書いてあるように人には見えるんじゃて。便利な膳だわ」 親切な河童に会席膳を借りた太市は、質素ではあっても、恥ずかしくはない心の篭った料理を膳に載せ振舞いました。 「よお、太市。あんなに立派な膳の用意があったなんて、驚いたよ」 幼馴染の助十も、来月には嫁をもらうことになっていました。 「おまえの婚礼ももうすぐだな。膳は用意したのか」 「自慢じゃないが俺は小作のせがれ、膳など無くてもよいわさ」 「まあ、それはそうだが、あるに越したことはないだろう。実はな、あの膳は、河童が淵の河童さまに借りたのよ」 「河童さまに借りたって」 「そうよ。おまえも頼んでみろよ。きっと貸してくださるさ」 借りた膳を返す時、助十も一緒に大八車を押して運びました。そして、頼んでみたのです。 「よいわ、よいわ。助十も親孝行な良い男だ。喜んで貸してやるとも」 河童が淵の貸し膳のことは、口伝えに広まり、次々に貧しい男が借りにゆくようになりました。そのたび、 「よいわ、よいわ、貸してやるとも」 河童は上機嫌で膳を貸してくれたのです。借りた若者も、使い終わった膳を丁寧に洗い、河童の好物の胡瓜や餡子餅をお礼にと届けることが、この地方の習慣になっていったのです。 そんなあるとき、権蔵という心がけの良くない男がこの膳に目を付けたのです。 「へん、あんな河童なんぞ怖くはないわい。見れば立派な膳だ。おれの物にしてやろう」 借りたまま返さなかったのです。 婚礼が終わり、もう数ヶ月も経っていました。権蔵が返しに来るようすは一向にありません。 「どうやら、盗み取られてしまったようじゃわい。俺も歳をとったものだ。人間に騙されるようじゃあ、河童も終わりよ」 さびしそうにつぶやいた年老いた河童は、淵の奥底に沈んでいってしまいました。 ちょうどそのころ、権蔵の物置に積んであった河童の会席膳は、端の方から崩れ、液体となり、周囲に積んであった農機具や、蓄えていた種籾を始め、ありとあらゆるものを溶かし、溶けた液体は土の中に染み込んでしまったのです。あっというまに、権蔵の物置は空っぽになってしまいました。 そしてその日から、だれが呼びかけても、河童は現れなくなってしまったとのことです。 |