創作民話 合羽川太郎

掲載日:2003年7月2日
最終更新日:2005年8月19日



浅草「かっぱ寺」伝承より

「こんなに難工事になるなんて思ってもいなかったわい」
 ついつい愚痴っぽくなってしまう喜八だった。

 いつの頃からか、隅田川のなかほど、一日で千両の金が舞うと言われる色町、吉原のすぐ南のこの地に掛かっている橋が、合羽橋と呼ばれるようになった。
 橋の近くに、伊予新谷加藤家下屋敷があった。屋敷に住んでいた下級武士や中間たちが、生活の助けにと雨合羽を造っていた。丈夫な紙を張り合わせ、防水に油を塗った合羽を、この橋に掛けて乾かしていたのだ。
 彼らの造る合羽は上質だった。それに目を付けた喜八が、この地に合羽屋を始めた。商売は順調に大きくなり、今では、加藤家の中間に指導を頼み、近在の農家でも合羽造りを始めている。その差配はすべて合羽屋喜八が握っていたから、その身代は、たかが合羽一枚とは言い難いほどの大きさになっていた。

 加藤家の下屋敷は隅田川のほとりにある。上流の利根川から隅田川を経て流れ込んだ土砂が積もってできた土地だけに、地盤はゆるく、しっかりとした土手もなかったことから、年に何度も水があふれ洪水になった。
 ひんぱんに起こる洪水だったから、慣れている。それなりに備えをしているとは言っても、起こってしまえば損害はばかにならない。加藤家の家臣や近在の農家も豊かではなかった。
「堤防を固めることはもちろん大事だが、流れ込んだ水を、溜まることなく流してしまうことが重要なんだよ、喜八どん」
 喜八の故郷、尾張から商用で江戸にでてきた幼馴染の幸助が教えてくれた。幸助も尾張の在所で堀割工事に参加した経験があったのだ。
「よし、お世話になっているみなさんのためだ、俺が一肌脱いで、工事をしとげてみせる」

 男気の強い喜八は幸助の助言を受け排水のための堀割工事にとりかかった。
 工事は、思いのほかの難事業だった。地盤がゆるく砂地であったことから、いくら掘っても崩れて埋まってしまう。コンクリートなどない時代だったのだから、その難しさは想像に難くない。
 昨夜降った雨のためもあり、崩れ去った無残な堀のほとりにたたずみ、喜八は途方にくれていた。

「旦那、暗い顔をしてどうなさったんですかい」
 突然、声を掛けられて喜八は驚いた。
「おや、どなたですか」
 周囲を見渡した喜八だが、人の姿は認められなかった。
 ポチャン、と音がして、水の中から顔らしきものが浮かんできた。
「おぉ、河童さんかい。久しぶりだねぇ」
 もう数年にもなるのだが、薬の担ぎ売りをしていた喜八が、合羽橋周辺の合羽に目をつけ、一人で合羽を買い集め、薬に加え合羽をも売り始めていた頃のことである。場所は隅田川のもっと下流でのことだ。
 日も暮れ頃、薄暗くなった隅田川の岸に、薄黒くこんもりとした人くらいの大きさの物を見かけた。
 気になって近づいてみると、それは、傷ついた河童だった。
 おそらく、ぼんやりとして川に浮かんでいた河童が、川を行き交う船に当てられ、怪我をしたのだろう。気は失っていなかったが、俗に河童の皿といわれている頭から額にかけ、ぱっくりと口があいていた。額からは、大量の緑色の血を流し、虫の息だった。
「これはこれは、ひどい怪我だわい」
 驚いた喜八だったが、見てみぬ振りはとてもできない気性である、持っていた薬を包帯に塗り、きつく巻いて手当てをした。
 しかも、放っておいたのでは、野犬に食われるかも知れないと心配した喜八は、河童を背負い、長屋まで連れ帰り看病した。
 三日三晩眠りつづけた河童だったが、四日目、目を覚ました時にはすっかり回復していた。
 何度も何度も、頭を下げながら帰ってゆく河童の姿を見送った、それ以来の再会であった。

「元気がとりえ、おっと、失礼しやした。そんな旦那がどうしなすったい」
「それがねぇ、こんな性格な俺だ、つい、力もないのに男気をだし、堀割を造って見せると啖呵を切ったまではよかったのさ、ところがどうでぇ。いくら人夫を雇い、堀を掘らせても、弱い地盤と砂地が禍してね、すぐに崩れちまうのさ」
「なるほどねぇ、旦那。地盤や地質も難しいが、人は昼間しか働けない、夜は休みよ。夜の間に崩れちまうのさ」 「うん、そうもいえるな。仕事をしまうときには、そこそこしっかりとできていた堀が、朝きてみると、このしまつだもんなぁ」
「よっしゃ、大恩のある旦那のためだ、おいらにまかせておくれ」
「どうするんだい」
「昼間は旦那の人夫が堀を掘る、夜は、おいらと仲間が、崩れないように堀を守ってやらぁ」
 翌日から、堀割工事は順調に進んだ。喜八が、かつて助けた河童の恩返しを受け、堀割を完成させた噂は江戸内に広まった。
 今では、喜八を「喜八」と呼ぶ者はいない。喜八のとおり名は商う「合羽」と、河童の別名である「川太郎」とを組み合わせ、「合羽川太郎」として知れわたり、店はますます繁盛を極めた。
「店の身代が、こんなにも大きくなったのは、『合羽』と『河童』のおかげです」
 感謝した喜八は、菩提寺でもあった合羽橋近くの寺に「河童の社」を寄進し、節句ごとのお祭りを、欠かすことは無かったそうです。





河童と民話館へ
hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木