高山彦九郎


高山彦九郎記念館より
高山彦九郎

 延享4年(1747)上野国新田郡細谷村(現在の太田市細谷町)にて生まれた、『寛政の三奇人』と呼ばれた人物です。

 細谷の庄屋の家に次男として生まれた彦九郎は、子供の頃から学問が大好きな少年でした。

 少年期に、『知行合一(知ると言うことは、行動を伴わなければ意味が無い)』を唱える陽明学と、『名分論(厳格な道徳主義により、得た知識を自己の心身に会得することを 重んじる)』の朱子学を学んだ彦九郎は、全国を旅した漂浪の思想家でした。また、尊王思想に篤く、幕末の水戸藩における尊皇攘夷思想にも影響を与えた人物です。

 彦九郎が敬愛する祖母が亡くなった時、彦九郎は中国朱子学のしきたりに従い、三年間の喪に服したのです。三年もの長期間にわたる喪は、日本の当時の世間の常識からすると 異常な行為だったのでしょう、庄屋である実の兄の反対にあいましたが、聞き入れず強引に実行しました。

 その様子は、始めの頃こそ、近隣の人達にも異様に感じられたのですが、次第に評判となり、尊敬を集めるようになったようです。喪屋に閉じこもり『無言の行』を続ける彦九郎を一目見ようと、 多くの人々が訪れるようになりました。墓前には、集まった人達が手向ける花や香が絶えなかったとのことです。

 この事実が、江戸の幕府の知るところとなりました。当時幕府は、しばしば、良い行いをしたり、親への孝行が優れている人があると、模範的な行為であるとして表彰をしていました。そこで、 彦九郎も江戸に呼び出されたのです。

 ところが、江戸で彦九郎を待っていたのは、表彰ではなく、逮捕投獄でした。

 罪に問われた理由ははっきりとはしていません。優秀な弟の才能と人望を妬みひがんだ庄屋である兄が、讒言を持って嘘の罪状をでっち上げて奉行所に訴え出たとする説と、 あまりの鬼才・異才、またその思想に将来の不安を感じた領主(旗本筒井家)の陰謀説もあります。

 釈放された彦九郎は、『兄の行為を恥じて生地には決して帰らない』と友人に手紙出していますから、彦九郎は、兄が讒言したと信じていたのでしょう。そして、それ以降、二度と帰ってはきませんでした。

 細谷を捨てた彦九郎は、全国を旅して廻ります。各地では著名な思想家や学者と交流し、尊王思想を確固たるものとしてゆくのです。

 ここで、『尊王思想』を説明しておきます。倒幕を果たした反幕府勢力が唱えた『尊皇攘夷』の『尊皇』とは、発音は同じですが、文字が違い意味も異なります。

 『尊王』とは、儒教思想に基づいた思想なのです。下位の者は、上位の者を主(あるじ)として尊ばなければならないとの思想です。

 日本の伝統における最高位の『王(権力者)』は『天皇』です。よって、『将軍は天皇を尊び、大名は将軍を尊ぶ。藩士は大名を尊ばなければならないし、領民は武士を尊ぶ。また、農民は名主を敬い、子供は親を敬わなければならない』との思想、つまり『目上を敬え』との思想なのです。

 結論としては、『天皇を尊ぶ』ことには違いがありませんが、反幕府勢力の『尊皇』(明治政府もこれを継続しています)は、あくまでも『天皇を尊ぶ』だけの政策ですから、根本的な哲学が違うのです。

 彦九郎の奇行については、京都における『三条橋の土下座』が有名ですし、全国を旅しての膨大な日記などが残っています。各地の思想家にも強い影響を与えました。

 寛政5年(1793)、滞在していた筑後国久留米(福岡県久留米市)にて、唐突な自刃により、その47年間の命を落とした彦九郎ですが、その理由は不明です。

 彦九郎が見捨てた細谷ですが、その生まれた家の隣に、『太田市立高山彦九郎記念館』が建てられています。郷土が生んだ偉人には違いありませんが、嫌って捨てた地に、記念館ができました。本人はどう思っているのでしょうか?

 ただ、その同じ郷土に住む私たちですから、冷静に、その人となりを研究し評価することは良いことと思います。なにせ、明治政府および、それ以降の富国強兵軍国日本の政府からは、最大限に利用されたのが彦九郎です。 そして戦後、価値観の激変とともに、その評価が落とされたのです。

 戦前生まれの人ならば、知らない人にいない彦九郎。それが、今の子供で知っているのは、地元の子供の、それもごくごく一部だけ。

 ふざけるな、と私は言いたいのです。

 せめて、同郷の私たちが、正しく評価することは、必要なことと思っています。