大光院の建立と呑龍上人の伝承

「先生こんにちは。今日はどんなお話をしてくださるのですか」
「そうだね、おおたん。今日は、太田の名勝でもある『大光院』と、その住職だった『呑龍上人』のお話をしよう」
「大光院って、金山の南側にある大きなお寺ですよね」
「そうだよ」
「子育て呑龍って呼ばれているのを聞いたことがあります」
「うん。子供が授かるご利益があると信心されていて、子供を欲しいご夫婦がお参りしたり、生まれた子供が丈夫に育つようにと、生まれたばかりのお宮参りや、成長の節目である七五三のときにお参りしたりするお寺だよ」
「お宮参りって、神社にお参りするんじゃないんですか」
「本来は神社なんだろうね。初詣なども、神社に行くのが本来なんだ。しかし、江戸時代は、神社とお寺にはほとんど区別が無くて一体になっていた伝統があるんだよ。それが、明治維新によって徳川幕府から政権を奪取した新政府は、天皇陛下を日本神道の神様としたからなのだろうね、1868年に『神仏分離令』という布告(命令)をだしたんだ。これが、結果として、お寺と神社を分けるだけではなく、『廃仏毀釈』となって、仏教側が一方的に弾圧されたんだ。貴重な仏教文化財がたくさん破壊されもしたんだよ」
「政府が仏教を弾圧したんですか」
「そうではないんだ。布告の目的は、神社と寺院を明確に分けようとする意図であって、排斥ではなかったんだけど、民衆の一部が勘違いしたんだろうね、廃仏毀釈運動という、民間運動が引き起こされてしまったんだ」
「政府ではなくて、民間の人達が、勘違いして勝手にしてしまったということですね」
「そういうことだね。でも、この運動は長くは続かなかったんだよ。数年でおさまった。しかし、分かれてしまったお寺と神社は、以前のように一体になることはほとんどなかったから、今では、神社とお寺は別になっているところが多いね。おおたんは淺草を知っているかい」
「しってますよ。太田から東武線に乗って終点の駅が淺草駅ですよね」
「そう。淺草には、お寺として『淺草寺(せんそうじ)』があって、その隣に神社の『淺草神社(あさくさじんじゃ)』が並んでいるんだよ。元々は一緒だったのを分けたんだね」
「では、初詣やお宮参りに大光院にお参りするのは間違いなんですか」
「厳密に言えば間違いかも知れないけど、もともと一体だった歴史があるし、運動が収まってからは、信者の方は今まで通りにお参りするようになったんだね。神社もお寺も、人々が幸せに暮らせるようにお祈りをすることは同じだから、どちらに行っても良いと考えるほうが自然だね」
「では先生、お話をしてください」

 徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開くと、自らの祖先が新田源氏であるとして、その祖である新田義重を供養し、併せて徳川家の安泰と天下平定を祈願するための寺として、1613年に『義重山(ぎじゅうざん)新田寺大光院』を建立した。そしてその初代住職として翌年に『呑龍上人』が入山した。
 この寺が、「子育て呑龍さま」として、民衆から慕われるようになるについて、そのいわれとされる逸話が伝わっています。

 囲炉裏に吊るした鍋からは、米と野菜の煮える良い臭いが立ち込めていた。
「上人様。そろそろ粥が煮えまする」
 今は僧侶の姿となり、名も源龍と改めた源次兵衛は、本堂で読教する呑龍上人に聞こえるよう、大きな声を出した。
 ここは、小諸の山中にある小さな寺である、それほどの大声をださないでも聞こえる。
「源龍よ、大声を出さずとも良いわ」
 ほほえみながら台所にと歩んでいた呑龍上人は、十八歳になり、すっかりと大人びた体つきにと成長した源龍が、墨染めの衣を着て粥を椀によそう姿を見ながら、昔の事を思い返していた。

 それは六年前、呑龍上人が還暦の年、すでに赤城山には雪が振り積もり始めた、冬の初めの寒い夜のことだった。
 夕餉も終わりくつろいでいた時だった。痩せ細ろえ、みずぼらしい衣服の少年が一人、庫裏に駆け込んできた。
「お住職さま。どうかお助けください」
 長い距離を走り続けてきたのだろう、顔には深い疲労の影があったが、その目には力があり、聡明な頭脳の持ち主であると、一目で呑龍上人には見て取れた。
「いかがいたしたのじゃ」
 十歳を少し超えているらしい少年は、土間にうずくまり、息を弾ませながら上人の問いに答えた。
「はい、ご住職様。私は、武州熊谷の在所に住む郷士、斉藤源太郎の息子、源次兵衛と申します。館林藩の捕吏の追われております」
「捕吏にのう」
 役人に追われるということは罪を犯したということである。しかし、呑龍上人にはこの少年が悪事を働くようにはとても思えなかった。
「よろしい。詳しい事情は後で聞こう。これ、呑心。この少年を奥に匿いなさい」
「はい。承知いたしました。上人さま」
 少年が呑心に連れられ、奥に姿を消したちょどその時、足音も激しく、数人の捕吏が庫裏の表戸の前に立ち、
「我らは館林藩のご用を務める者である。先刻、鶴殺しの下手人がこの寺に逃げ込んだのを目撃した。即刻お引渡しいただきたい」
 と、大声で怒鳴った。
 騒ぎを聞きつけ、大光院の参道に並ぶ商店から住民たちが次々と駆けつけてきた。また、大光院の庫裏に並んで建てられている僧院からは、修行中の若い僧侶たちが、数十人も飛び出してきた。
「なんて失礼な人達なんでしょう。ここを、どんなお寺と思っているの」
 取り囲んだ住民の中から中年の女性が飛んだ。
「お静かにお願いいたしまする。そのような者が当山に逃げ込んだかどうか、奥にて確認をいたしますので、しばらくお待ちくだされ」
 中年の僧侶が、今にも、庫裏に踏み込もうとする捕吏たちを止めた。
 いったん、奥に入った僧侶は、しばらくして門前に戻ると、
「そのような者は当山には入ってはおらないというのが、ご上人様のお返事でございまする」
「そんなばかな。我方の手先が、確かにこの寺に入ったことを目撃しておる。差し出さんというなら、踏み込んで捕らえるまでじゃ」
 捕吏の頭であろう、立派な陣羽織のいでたちの武士が、脇差を抜いた。
「なにをなさる。ここをどこの寺と心得ておる」
 それまでは、静かな物腰だった中年の僧侶呑心だったが、どこからそんな声がでるかと思うほど、良く通る大きな声で一喝した。
「ここを、徳川家康公ご創建の寺院、義重山新田時大光院と知っての狼藉か」
「と、徳川家康公……」
 捕吏たちは狼狽した。
「そうだそうだ、とっとと帰れ。帰れ」
 住民たちも、口々に叫んだ。
「い、いたしかたがない。ここはいったん引き上げる」
 大光院の権威を畏れた捕吏たちはしかたなく、館林へと引き上げていった。

「私の父は、母が亡くなってから、男で一つで私を育ててくれました。郷士とは言っても名ばかり、実態は貧しい百姓と同じ。長年の苦労がたたり、病の床に伏しました。お医者様にも見ていただきましたが、いっこうに良くはならず、衰弱するばかり。そんな時、鶴の生き血が良く効くと教えてくれた方があったのです。当地の鶴は、家康公お手放ちの鶴とのことから、捕らえるのは国禁とされています。それは承知していたのですが、止むに止まれず、鶴を捕らえ、殺してしまったのです」  禁止されていることを知っての捕獲である。人知れず捕らえたつもりだったが、そこはまだ、十歳足らずの少年である。目撃した住民は少なくなかった。しかし、少年の親を思う気持ちを知っている住民たちは、見てみない振りをしていたのだが、通告の礼金欲しさに密告した者がいたのだ。 「源次兵衛どん。早く逃げなされ。お父上のことは我らがお世話をするからよ」
 代官所の下働きをしている男が、源次兵衛の家に飛び込んできた。
「父上を残して逃げることはできません。罪を犯したのは私です。私が捕らえられれば、父上には類はおよばないはず。潔く捕らわれます」
 源次兵衛は答えた。すると、
「将来のあるお前を死なせるわけにはゆかない。私の病は回復することはないだろう。お前のように素直で真心の清い息子を持ったことは幸せだった。この命、明日終わっても私には悔いは無い。お前は生きて、その心と知恵で、武士の責務である民のために、命をまっとうして欲しい。源次兵衛、逃げよ」
 父の友人を頼り、館林に逼塞していた源次兵衛だったが、その犯した罪と、潜伏している事実が、館林城主の知るところとなった。  城主は、自らの手で捕らえ、将軍家へ差し出すことにより将軍家に恩を売ろうと考え、追っ手の捕吏をくりだしたのだった。

 館林城下に戻った捕吏の頭は、事の顛末を城主に報告した。報告を聴いて激怒した城主は、大光院が、寺院をあげて下手人を匿っていると幕府老中へ通知した。
 通知を受けた老中は、幕閣五人により評定を行い、五者連署による差状(幕府公文書)を大光院に送付した。内容は、下手人の引渡し要求である。
 差状を受けた大光院では、住職である呑龍上人に罪が及ぶことを恐れ、幕府の命令に従うよう、上人に懇願したのだったが、
「いったん、仏前にて匿うと誓ったからには、これをひるがえすことはできない。ましてや、家康公お手放の鶴とはいえ、人の命とは代え難い。引き渡すことはできない」
 と言って、源次兵衛を引き渡すことを拒否した。
(しかし、上意に背いてこのまま放置してもおけまい。このままでは、当山の僧侶や門前の者たちにも迷惑がかからないともかぎらない)
 と考えた呑龍上人は、寺の運営を役僧たちに任せ、源次兵衛を剃髪され僧形にすると、深夜の闇にまぎれ、密かに大光院を出て信州小諸へと、伴に逃げ落ちたのだった。

(あれからもう六年にもなるのお)
 逞しくなった源龍の背中を見ながら、呑流上人は思った。
 ちょうどそのときである、庫裏の戸を叩く音がした。
「御免くだされ。拙者、幕府よりの使者にございます。ここをお開けください」
 なんの前触れも無い、まったく突然の使者だった。使者は、二代将軍徳川秀忠公よりの赦免(罪を許す)状を携えていたのだ。
 この赦免の裏にも、呑龍上人が、いかに偉大な僧侶であったかを現す逸話が残っている。
 呑龍上人が大光院を去った直後の四月十七日に、徳川家康が駿府城にて亡くなり、翌年には、呑龍上人の恩師である増上寺住職である観智国師が入滅しましたが、その直前、危篤の報を受けた二代将軍秀忠は、土井利勝を使者として、国師の病床を見舞わせたのでした。
 このとき、利勝は、
「将軍秀忠公からのお言葉でございまする。ご臨終に臨み、なにかお望みの事はございませぬか」
 と、問いかけた。すると、
「他には思い残すことはありませんが、ただ一つ、呑龍の罪を許していただきたい」
 と、答えたのだった。
 利勝は、国師の遺言を将軍に伝え、将軍の名によって赦免状が届けられたのだった。
 赦免状を受け取った呑龍上人は、小諸の寺の住職を源龍に託し、太田大光院に帰山したのだった。
 帰山の翌年には、将軍秀忠公の招きにより江戸城に上がった呑龍上人は、六年間の苦労をねぎらう言葉をいただき、京の朝廷からも紫の衣を贈られました。
 江戸城から帰山した翌年(1623)、七月九日の正午、かねてよりの遺言の通り、雷鳴のとどろく中、六十八歳の生涯を閉じられたのです。

 終わり。


 これは、創作伝承話です。文中の地名や個人名の一部は筆者の命名したものであり、史実とは異なります。

すごく偉いお坊様だったんですね。それに、考え方が、まるで今の人のようですね」
「そうだね、権威よりも、人の真心を大切にする方だったんだろうね。呑龍上人が、徳の高いお坊様だったことは、太田以外の場所にも伝わっているようなんだよ。そもそも、大光院に来られたときには、すでに六十歳に近いお歳だったし、上人という高い地位だったんだからね。大光院の前に住職をしていたお寺にも、すてきな伝承があるようなんだ。それはまた、調べておくね」
「は〜い。お願いします」


     参考図書:あかぎ出版:太田・新田の伝説 著者:高橋光枝氏
                    ふるさと事典 太田 著者:茂木晃氏

太田の伝承と創作民話